逝去

一緒に暮らしていた犬が死んだ。

 

父の時も姉の時も、とても悲しかったけれど納得できた。

人の死については小さな頃から納得していた。

 

犬の死は違っていた。もちろんとても悲しかったけれど、さらに喪失感があった。

何をなくしたのだろう、考えてみた。

人は隣人であったけれど、犬は景色だったんだ。

人が亡くなっても景色は変わらないけど、犬が亡くなると景色が変わってしまう。

いつもいい顔をしていた。いつも話の相手をしてくれた、いつも疲れた心を癒してくれた。

人の行動範囲はとても広いのに、どうして心の行動範囲が狭いのだろう。

犬の行動簡易は半径1.5mの円の内側しかなかったのに、どうして心があんなに広かったのだろう。

いつもいい顔をしていた。それが無くなっただけで悲しみよりも寂しさで涙も出ない。

こんな時こそお酒でも飲んで、思い切り泣いてみたいと思う。

 

今日、火葬場に連れていって最後のお別れをしてきた。

やがて新しい犬がやってきて、全てが思い出になってゆくのだろう。

そしてまた、新しい景色が出来上がってゆく。

 

忘れないことは人に進歩をもたらした。

忘れることは人に幸福をもたらすのだろうか。

銃刀法

正確には「銃砲刀剣類所持等取締法」という法律らしい。

先日のこと、探し物をしていたら古そうな短刀が出てきてしまった。

こういう物は届け出をして許可をもらわなければいけない・程度の知恵はあったので、警察署に行って聞いてみた。そもそもどこの課に行けばいいのかさえ分からなかったが教えられたのが「生活環境課」・・ちょっと意外だった。で後日現物と身分証明書を持って行き、何度も住所と名前を書かされて「刀剣類発見届出済証」というものを交付してもらい、県の「教育委員会事務局文化財生涯学習課」(これも意外)から「銃砲刀剣類登録審査会」の開催日に現物と発見届出済証と印鑑と審査手数料で6,300円分の県の収入証紙(印紙ではなく証紙・・た高い)を持っていって問題なければ「登録証」を交付してもらう。これで一件落着となる。

なんて漢字が多いのだろうと感心してしまうな。分からないでもないが短刀一本のためにこれだけのことをしなければいけない。もっともいとも簡単に銃砲刀剣類が手に入るような国より治安は良いのだけれど。

さて株投資はドリルにはいった。毎日チャートを見ながら予想をたてる、の繰り返し。一応選んだ銘柄が50社あるのでこれはもう根気勝負なのだ。

三日たっても飽きないからなんとか続くだろう。これが夢に出てくるようになると楽しくなるんだけれど。

並行して持ち運び簡単折り畳みテーブルを作っている。のんびり穏やかに楽しめる日々を目指して。

等価交換

簡単に言えば、「Aが(A+C)=Bに変化するときBはAにCと同価を渡さなければならない。」ということなのだ。これは全てにおいて当てはまる。

夢でも希望でも目標でもそれを得た価値と渡してしまったものの価値、どちらが本当に必要だったのか死ぬ時までわからないのだろう。

さて、今回始めた株投資についてだが、これはギャンブルではない、以前書いたように

人がかかわっているものは純粋に賭けとはいえない。

ならば方法論さえしっかりしていれば負けることはないのだ。

まず下準備で使えるお金がどのくらいあるのか把握する。このお金とはいわゆる「遊び

金」とか「余剰金」とかいわれるお金である。暮らしが成り立たなくなっては夢も希望

も無いのだ。1,000円で10,000円の勝負はしないこと。

 我が家の家訓がある。「ねぇ父さん、どうして役に立たない柏の木をとってあるの?」父曰く「柏(貸しは)あっても借りは無いんだ」名言だと子供心に思った。

次の準備はネット銀行に口座をひらくこと。株の売買は個人ではできないからだ。

そしてどんな方法で株の高値安値を予想するか、実際に取引をしている個人投資家

とんでもない人数なので、方法もかなりの方法論がある。

その中から自分に合ったものを探さなければならない。言っておくがこの手の情報というのは儲かることばかり目立つようになっている。

さて、方法論が決まったら練習をする。間違ってもいきなり実弾(現金)を撃ってはいけない。どんなことでも理想で10割まあまあで9割悪くても8割の確率で当たるようにしなければならない。それもしないで「話しが違う」と騒ぐ奴の多いこと。

あとは絶対に自分の決めた方法を曲げないこと隣の芝生は青く見えるのだ。

とまぁこれが俺の現状で、毎日株価チャートを見ては予想する毎日だ。

「こんなことしていてもいいのだろうか・・」などと思ったことは無い。

まだ何も結果がでてはいないのだから。

 

何でも欲しいものを手に入れたいと思うのは勝手だが、その分何かを手放すことになることを忘れないことだ。

                  

 

身体が良くなってくると何かしたくなるのが人情で、何かするには夢が必要だ。

夢をかなえるには目標を決め、目標をかなえるには方法を考える。

とにかくまずは夢だ。

何かわからない何かを考える時、俺は本屋に行く。何か心に引っ掛かる言葉や写真や

イラストなどを見つけたら、そのジャンルを詳しく見る。さらにそれが現在の俺ができることならそれが答えだ。

とにかく時間はある。

考えることや勉強が必要なこと、結果がはっきり出ること、努力に対して成功と失敗がわかること、夢のための目標になること、なにより興味がわくことなどなどいくつもの条件を満たせばそれをやってみる。

で、今回見つけたのが株式の投資。

時間があっても生産力がまったくない俺にとっては「ま、やってみるか」と思える。

投資はギャンブルだという人がいるが、間違ってはいない。しかし本当のギャンブルではない。競馬でも麻雀でもパチンコでも、必ず人が介在している。

本当のギャンブル(賭け)には結果に人が介在する余地が無い。例えば農業のように。

つまり俺は生まれながらにギャンブル人生なわけで、いまさら賭け事怖いなんざ思わない。ただ今まで興味が無かっただけだ。

やると決めた以上きっちりやる。

だからこのブログは「株投資はじめました」になってしまいそうだ。

株式についてはほとんど知らないので、まずは株投資について学まなければならない。

そこで「初心者でも一年で一億円稼ぐ簡単投資法」みたいな本を買ってきた。

つづく・・・・。

 

 

再心

去年のいまごろ、というより元旦からほぼ死んで(いるような状態だっ)た。

もうすぐ還暦だし、好きな人生をやったから、「さよなら」でもいいか・・

案の定無理やり連れていかれた病院の先生は「このままだと、もうじき葬式だな。」

少し楽しそうに優しく教えてくれた。

「どうする?」と言われても、何か提案してくれるのが先生じゃないの?

「なんとかしてください!」と付き添いの親族の声。

「君はどう?」は先生の声。

「この痛みの無い苦痛から抜け出たいかな・・」これが俺。

「だったら私のいうことを、絶対に守りなさい」・・・・・で、今日に到るわけだが、

そうなると「病を治す」ことより「言われたことを守る」に懸命になるのが俺。

人は辛ければ辛いほど下を向く。どんどん自分の中に入ってしまう。

少しだけ顔を上げれば違う世界がいつもあることに気が付かない。

朝日を見るのが好きになったのは三月、体が思うように動くことに感動したのは五月。

心が再び動き出し、新しい夢を見つけたくなった七月。

思うに、確かにあの時俺の人生は一度幕が下りたのだ。

今は二度目の人生をおくっているのだと思う。一度目の生き方と今とではまったく違って面白い。あの時の今は来世で、今思うあの時は前世なんだろう。

生きて来たわけでもなく生きてゆくわけでもない。今があるだけ。

だから「今」をどれだけ楽しめるのかが楽しみだ。

一華五葉

歯医者の帰りに花を買った。

思い返せば花を買ったことなどほとんど無い。付き合ったただ一人の女性、はるかに遠い土地で結婚した友達、ストリップ劇場の踊り子さん達、仏様(ご先祖様)。

そもそも果樹農家の私は花卉野菜類の花より果樹の花を見ることが多い。

南陽のあたる、花屋さんの店先で花を選んでいると、温かく穏やかな気持ちになる。

植物は色々なことを教えてくれる。ところが人は、元々持っている魅力を無視して、

人好みの花に改良してしまう。罪悪感も無いままに。

自然と共存という名目で人に都合が良いように変えてしまう。笑えないけど笑っちゃう。自然の中でそれは、自分で自分の首をしめていることだと気が付かないままに

偏った幸福を求める。

幸福あるいは幸福感というのは、そもそも実態の無いものだからそれでもいいのだろう。幸福感を得るのに、それほど沢山のものはいらないのだけれど。

私は「生き方」を動植物に問い教えてもらう。不幸な動植物はいないのだから、私はいつも幸せなんだと思う。

一華五葉(いちげごよう)を開き、結果自然(じねん)に成る。

心に綺麗な花が咲けば、自然に素敵な実(身)と成る。

広い大きな道の真ん中を穏やかに歩いていれば、いつだって幸せなのさ。(笑)

看脚下

今年で60(還暦)になった。今日まで好きなように生きてきた。

何のために、なぜ生きる?なんて考えたことはないし、やりたいことをやり続けた。

60の誕生日直後に生きるか死ぬかで入院した。結果生きられることとなり

今日にいたる。

かつて「夢」を見つけ、「目的」をたて、「情熱」を持って、過去を反省し将来の計画をたて生きていた。

今は今を生きるだけだ。夢も目的も情熱もあるが、過去や未来への想いは無い。

「四苦」も無い。生きるように生かされているので、生きることに意味なんて無い。

いつ死んでもいいけど死ぬ気はない。ただ穏やかに健やかに笑顔でいられれば

それでよし。

無理はしない、必要なもの以外は望まない、全てを楽しむ。

この世で楽しめなければあの世でも楽しめないからな。

「看脚下」足元を見なさいということ。

一生ぶんの今が微分、今の積み重なりが積分、おもしろいな(笑う)。